ルーツを書き終えて以降、新たな事実が判明していますので、今までの記述を改定する必要が出てきました。
佐賀県立図書館の鍋島文庫を2013年4月12,13,14日に亘って、調査してきました。
父が書き遺した中川家系図の基となった「中川家系図」を発見。
第八代吉衛門が佐賀藩に提出した「中川家系図」が保存されていたのです。
加えて、丹波篠山から乳母ともども京都へ落ち延びた(始祖慶也)ことに関しても、新たな事実が分かりました。
始祖慶也の父親は、丹波篠山にあった城(調査中)の城主だった。
また、明智光秀の丹波攻めによって、落城した(天正7年)と思っていましたが、そうではなかったのです。
光秀が天正10年に没した後に丹波篠山にあった城が落城したと書かれています。
始祖慶也の父親は「不詳」と系図には書かれていますが、佐賀県近代史料第8編第1巻には、「中川雲安祖父祖父」の名として「中川某為明」が記載されていることが分かりました。
中川雲安は始祖慶也の養子となって、中川を継いだ初代の人です。したがって、雲庵の父が始祖慶也、始祖慶也の父親は雲庵にとっては祖父ということで、間違いはないものと受け止めています。
だだ、雲庵自身の養子になる前の姓が中川ということも考えあわせておかなければなりません。
というのは、同年代に京都の医師で後に京都案内書を書いた中川喜安という人がいるからです。中川雲庵と喜安は兄弟の可能性がある。
中川喜安は今の亀山の人(中には安芸の人と書かれているが、亀山が正解に思われる。)なので、中川某為明が中川雲庵の祖父ではないのではのかという疑念が残ります。
しかし、ここではその真偽は分からないので、素直に残された記録を信じて、当家の始祖慶也の父親と認識しています。